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夢街道ルネサンス認定「街道東城路」

夢街道ルネサンスとは

夢街道ルネサンスは、歴史や文化を今に伝える中国地方の街道を「夢街道ルネサンス認定地区」として、夢街道ルネサンス推進会議が認定します。中国地方の豊かな歴史・文化・自然を生かし、地域が主体となって個性ある地域づくりや連携・交流を進め、地域の活性化を図ります。地域づくりとともに、目的地に向かって移動するだけでない"楽しみながら巡る"新しい「街道文化」創出を目指すものです。
東城のまちなみ約600メートルは、歴史や文化を今に伝える中国地方の街道として平成21年度に認定されました。

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東城町の由来と町並み

東城は、吉備国の一部でしたが、吉備国が備前、備中、備後に分割された冷制国成立(670年前後)に伴い、備後の国に属しました。その後、室町期に宮景友氏が五本竹城(後の世直城、五品嶽城)を築きますが、のちに本居を西へ約16キロメートル離れた大富山城(西城町)に移したため、五本竹城が「東の城」と呼ばれるようになり、東城という地名が使われるようになったといわれています。
東城の町並みは、東城川に沿って南北に長く、商い人や職人が主に居住する本町を中心に、西側に武家屋敷がならぶ家中町(館町)、東側に舟運で開け宿場町として発展した後町(浜栄町)の3つの大路に、それを結ぶ小路で形成されています。また数か所には前方が見渡せない枡形の街路が配され、外敵が攻め込み難い構造となっています。このような町並みの骨組みは、関ヶ原の合戦後、長尾隼人正一勝氏が世直城主(後の五品嶽城)になってから計画的に整えたといわれています。その後、一国一城令の発令により城は廃城となりましたが、陰陽の国境の要衝として城の機能は版籍奉還頃まであったといわれています。
東城は城下町の面影を残した宿場町としての性格が強くなり、たたら製鉄の隆盛とともに町並みが発展し、独自の文化を育んできました。現在においても、新町筋に「格子窓」「ぶちょう」「板のれん」「小縁」など東城の代表的な町家の伝統を引き継ぐ商家が並び、独自の景観を保持しています。

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庄原市三楽荘(旧保沢家住宅)

三楽荘の外観

明治期に東城の名匠と言われた横山林太郎棟梁により建てられ、東城のまちなみ景観の代表的な町家です。建築当時、当主保澤定四郎は、呉服反物商・醤油醸造業を生業としていましたが、昭和24年、定四郎の曾孫の保澤洵により旅館業に転業し、以後60年館旅館「三楽荘」として多くの人々に親しまれてきました。
現在は、庄原市が寄贈を受け東城の歴史と文化を伝える施設として運営しています。
三楽荘(旧保澤家住宅)は、建築年代の近い本館、離れ、土蔵及び門・塀が揃って現存する点や、現代において入手が難しい高価な材の使用、欄間などの特徴的な細工などが高く評価され、平成23年1月26日に国登録有形文化財に登録されました。

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ヤマモトロックマシン(旧山本鉄工所)

ヤマモトロックマシンの外観

工場棟5棟、旧自治寮3棟が平成28年2月25に国登録文化財に登録されました。
建物の多くは昭和初期の木造であり、地元の大工棟梁である曽田敏郎氏を起用して建てられたものです。日本の木造建築の黄金期にあたる当時と変わらぬ姿を今もとどめており、広島県内のみならず全国でも有数の優れた近代化遺産となっています。





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東城まちなか交流施設えびす

東城まちなか交流施設えびすの外観

市民や観光客が集い・憩う交流施設です。観光案内のほか、東城のお土産の販売や作品の紹介もしています。

  • 東城まちなか交流施設えびすのFacebookページはこちらをご覧ください







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