倉田百三
○倉田百三は、明治24年(1891年)2月23日、三上郡庄原村(現在の庄原市中本町一丁目)に呉服商の長男として生まれました。○庄原高等小学校を卒業した百三は、広島県立三次中学校(現在の県立三次高等学校)へ進学します。この頃から文学活動を活発に行い、同校の校友会誌『巴峡』へ毎号のように文芸作品を発表しているほか、文光堂より発行されていた『秀才文檀』への投稿も行っています。一方で、柔道部にも所属し、得意技は胴じめだったといいます・
○百三は哲学を志し、第一高等学校(現在の東京大学・千葉大学の前身)への進学を目指します。家業継承を優先する父親からは受験を断られますが、最終的に許され、明治43年(1910年)に三次中学を首席で卒業、一高に入学します。
○哲学者・西田幾太郎の『善の研究』に出会った百三は感銘を受け、ますます哲学に傾倒します。大正元年(1912年)には京都へ西田を訪ねています。しかし、この頃に肺結核を発症、大正2年(1913年)に一高を退学しました。退学直前、後に代表作のひとつとなる「愛と認識との出発」が書かれました。
○一高を退学した百三は須磨、鞆、別府などで療養生活を送ります。大正3年(1914年)には一時、故郷・庄原の上野池畔で独居しました。
○大正6年(1917年)、『出家とその弟子』が出版されます。同書は当時のベストセラーとなり、世界各国で翻訳されました。ノーベル文学賞作家であるフランスのロマン・ロランは本書を絶賛し、大正13~14年(1924、25年)に百三へ手紙を送り、また昭和12年(1937年)に同書のフランス語版が出版された際には序文を寄せています。
○その後、『歌はぬ人』(大正9年)、『親鸞』(昭和11年)、『青春の息の痕』(昭和13年)などを発表し、作家として確固たる地位を築きます。とりわけ、『愛と認識との出発』(大正10年・評論集としての出版)は当時の学生層に多大な影響を与えました。
○昭和18年(1943年)2月12日、百三は東京・大森の自宅にて、満51歳で亡くなりました。墓所は東京・多磨霊園と、故郷である庄原にあります。
百三の生家・倉田呉服店。庄原市中本町の商店街にありました。
三次中学時代の百三(後列右から4番目)と柔道部員
ゆかりの地
倉田百三の出身地である庄原市内には、数々の百三ゆかりの場所があります。百三ひろば
庄原グランドホテル横に昭和60年開設。「青春は短い、宝石の如くにしてそれを惜しめ」(平井信元揮毫)の碑と生誕百年を記念して建てられた胸像(吉田正浪制作)があります。
倉田百三誕生之地の碑
百三の生家は現在の庄原市中本町一丁目の商店街にあり、祖母の実家・尾道の「クリシン」の出店として、呉服のほかに雑貨を取り扱っていました。現在は、生家の跡地に記念碑が建てられています。碑文は百三の妹・艶子氏によるものです。
上野池
当時の上野池は現在のように開けておらず、静寂そのものだったといいます。百三は半年ほど、池畔にぽつんと建った一軒家に一人籠もり、思索と勉強にふけりました。倉田百三文学碑『森の沼』
上野公園の瓢山古墳付近へ昭和32年に設立されたものです。碑文は『愛と認識との出発』に所収された「森の沼」の一節からとられています。
百三の墓
百三の墓は東京府中の多磨霊園と、庄原市西本町の倉田家墓所の二つがあります。「戚々西行水楽居士」の戒名を付け、墓石の揮毫をしたのは、一燈園の西田天香です。
中央児童公園内の短歌碑
田園文化センターに隣接する中央児童公園内に、百三の詠んだ700首の中から選ばれた3首の短歌碑があります。増原一郎氏揮毫。「此の母の背中に面をおしあてて泣き眠りけむ昔おもほゆ」
「白雲の遠べの里に君生けり春蘭の花はこゝに息づく」
「子ら去りてさびしく見ゆるぶらんこの梁の上に出でし月かげ」
倉田百三文学碑(県立三次高校内)
県立三次高等学校の前身は、百三の通った旧制三次中学校です。その講堂前に昭和30年に設立されたものです。馬込文士村(東京都大田区)
大正末から昭和書紀を中心とした時期、現在の馬込・山王・中央(新井宿)とその周辺の地域に多くの作家や芸術家たちが移住した事から、後に馬込文士村と呼ばれるようになりました。馬込で暮らすようになった尾崎士郎は、「馬込はいいところだぞ」と言っては仲間を誘ったことが、より多くの人々が集まるきっかけになったといわれてます。
倉田百三も大森新井宿に居住しました。現在の南馬込が旧宅跡となります。
(参考:馬込文士村散策の栞)