地域がつくった博物館
博物館の設立へ
○1948年(昭和23年)に、比和小学校と比和中学校が広島文理科大学(現在の広島大学)の科学教室の分室に指定されたことが、比和への博物館設立のきっかけとなりました。○当時の日本は、太平洋戦争に敗戦し、その混乱がいまだに続いている状況にありました。その中で、「日本の復興は科学教育の充実と文化性の向上から」と、比和小学校と比和中学校に科学教室を設け、児童生徒の科学研究を進めると共に、教師も地域の自然史研究にとりくみました。この子ども・教師ぐるみの活動が、冒頭の科学教室の分室指定に繋がりました。
○大学の指導を受け、科学研究は活発になり充実しました。それと共に集められた自然史資料は膨大な数になり、中には学術的に貴重なものも含まれていました。これらの資料を保存し、後世にわたって有効に活用しようと、比和町(当時)が比和小学校内に「比和町立科学博物館」を設置しました。1951年(昭和26年)のことです。
○その後、1956年(昭和31年)に広島県立庄原実業高等学校比和分校へ施設移転、さらに1962年(昭和37年)に比和町中央公民館内に移転します。
「日本一小さく、日本一大きな博物館」
○湯川仁(旧姓:藤原)は、1953年(昭和28年)に庄原実業高等学校を卒業し、それと同時に動物調査の腕を評価されて学芸員補に採用されました。その後、1958年(昭和33年)より湯川は比和町教育委員会に職員として籍を置き、哺乳類と鳥類標本の収集に努めながら、特に小型哺乳類の生態研究を行いました。現在の「モグラ博物館」の土台を築いたのは、この頃の湯川の活躍によるものです。1980年に亡くなるまで、湯川は力を尽くし博物館を育て上げました。○湯川は比和町立科学博物館(当時)を「日本一小さいが日本一大きい博物館」と自負していました。「日本一小さい」というのは、独立した施設はなく公民館に間借りした状態で、兼任職員一人で運営されている状態をいい、「日本一大きい」とは、保管資料の質の高さ――例えばモグラの標本の点数の多さとその質――が評価されていることを指していました。
○現在、市町合併により比和町立科学博物館は庄原市立比和自然科学博物館となりましたが、湯川が自負した「日本一小さいが日本一大きい博物館」の精神は、変わらずに引き継がれています。
▲湯川仁_学芸員補
「市民連携の博物館」
○湯川によるモグラ研究、我まちの博物館を誇りに思う町民の協力、地域の自然誌研究団体である比婆科学教育振興会を中心とした市民研究者の研究成果の積み重ねなどにより、創立から70年以上の年月を経て、現在の「比和自然科学博物館」に成長してきました。○現在も博物館インストラクターや客員研究員をはじめ、広く市民の方々に協力してもらい、講座開催や展示ガイドなどの博物館活動を進めています。また、近年では市民の情報提供があったことで、広島県内で絶滅とされていた「ニホンリス」や幻のカビ「スポロディニエラ」の確認などの大きな発見につながっています。これらの博物館活動や研究成果は、市民と博物館の連携の賜物といえます。
○今後もこのつながりを大切に、市民の自然科学の研究拠点として、地域に根差した全国に誇れる市民の博物館を目指していきます。
▲幻のカビ「スポロディニエラ」
▲広島県内で絶滅とされていた「ニホンリス」
博物館の沿革
1951年(昭26)9月 | "比和町立科学博物館"として比和小学校内に開館 |
1952年(昭27)5月 | 『博物館相当施設』指定 |
1952年(昭27)9月 | 広島県で初めての『登録博物館』となる |
1956年(昭31)10月 | 県立庄原実業高等学校比和分校へ施設移転、同校内に併置 |
1958年(昭33) | 比和科学博物館研究報告第1号を発行 |
1958年(昭33)5月 | 『登録博物館』から解除される |
1962年(昭37)8月 | 比和町中央公民館内へ移転 |
1989年(平元)10月 | 比和町中央公民館取り壊しのため休館。 比和町立科学博物館建築工事始まる。 |
1990年(平2)3月 | 建築工事完了 |
1990年(平2)9月 | "比和町立自然科学博物館"と改称し、新装開館 |
2001年(平13)3月 | ディスカバリールームと収蔵庫を増設 |
2005年(平17)1月 | 再度『登録博物館』として登録される |
2005年(平17)3月 | 市町村合併により"庄原市立比和自然科学博物館"と改称 |
2012年(平24)7月 | 地学分館がオープン |